木村陽介。 銀行員。
30歳の誕生日に、 逮捕。
罪状不明。
現代の東京。とあるマンションの一室で銀行員の木村陽介が目覚めると、見知らぬふたりの男が立っていた。逮捕を告げに来たと言うのだが罪状は不明。ふたりは逮捕状も見せないまま我が物顔で部屋中を物色し、木村を困惑させる。
次の日曜日。裁判所へと向かった木村は、郊外の古びた学校にたどり着く。体育館に一時的に設けられた「法廷」で判事と対面するが、話は全くかみ合わない。ずさんでいい加減な対応に戸惑い、苛立ちをあらわにするが、まともに審議もされないまま閉廷を言い渡される。身に覚えのない突然の逮捕によって、次第に追い詰められていく木村。
無実を訴えてあがけばあがくほど、蜘蛛の巣のような“システム”に絡みとられ、どんどん身動きができなくなっていく。ここから抜け出す方法はあるのか?救いを求めて奔走するものの、期待はことごとく外れていく。そして木村は、出口のないこの迷路の終焉に、気づき始めるのだった―。
この映画の原作は、30歳の誕生日の朝に“目覚める”男の物語です。カフカはおそらく、この年齢を慎重に、あえて選んだのだと思います。ただ目を覚ますわけではなく、ありふれた日常の中で、些細な悟りの瞬間を体験する物語の主人公を選んだのです。
目覚めてしまうと、もう、まわりを見る目はどんどん変わってしまいます。毎日の生活、仕事、従順に守ってきた社会のルール・・・「逮捕された」という最悪の事態を目の前にすると、(実際、男は何の法律違反もしていないのだが)この世界がぜんぶ無意味に思えてくる―。最近よく、こう感じるのです。「私たちは誰しも、何かしらの罪で逮捕されてもおかしくない世の中で生きているんじゃないか」―ということは、どうやって無罪を主張するのか。あなたは、あなたの「無実」を証明することはできますか?
カフカが1915年に執筆したこの物語は、いつ映画化されてもその時代に通じるものがあります。顕著なのはオーソン・ウェルズの作品でしょう。フィルム・ノワールの照明スタイルと表現派を彷彿とさせるセットで、冷戦時代の悪夢を見事に描いています。でも、私は現代の東京を選びました。悪夢が現実の世界に浸食するように、観る人が、日本、そして世界で実際に起きていることを思い浮かべてくれたらいいな、と思っています。
秘密保護法、ブレグジット、トランプ、共謀罪、モリカケ問題。同じようで、違う世界。毎日新しくなる現実で、目を覚ます私たち。この世界を変えることはできるのか、それとも、おかしいと思いながらも受け入れるのか。受け入れるとしたら、それは「逮捕」されている、ということ?疑問を持つ人はどうなる?そもそも、この世界への違和感を覚える自由、考える余裕すら、今の私たちにあるのか?
本作は、知らず知らずのうちに、私たちを支配している奇妙で、怠惰なシステムについての映画です。巨大すぎて、ほとんどの人は気にもせず、ぼんやりと見過ごすだけ。政府や、テレビや新聞や、たいていのメディアは私たちの思考を停止するのに一生懸命。少しずつ、民主主義がそぎ取られていませんか。政府なんかよりもっと陰湿で、人目につかない「何か」にさりげなく、少しずつ。
この映画が、ぼんやり寝ぼけた頭を突き刺すモーニングコールになることを願っています。その、うっとうしい目覚まし時計はこう鳴り響いています。
「お・き・ろ!」